南三陸町を訪れて

minamisanriku平成23年3月11日、東日本大震災が始まる東北地方太平洋沖地震の発生による大津波。

南三陸町を始めとした東北の太平洋沿岸部を大津波が襲いました。

この日から7年4か月。

先週の7月11日、私は南三陸町を訪れました。

 

ある方に、語り部の佐藤良夫さんをご紹介頂き、まる一日、南三陸町を中心に津波の被害と復興について、ご案内頂きました。

 

まず、待ち合わせをしたのが、ホテル観洋。牡蠣、海鞘、鮭の養殖が行われている長閑な志津川湾が一望できるこのホテルのロビーラウンジで、佐藤さんから、津波被害について伺いました。

このホテルも津波で2階部分まで浸水するも、災害時の活動拠点として、二次避難所にもなっていたということです。現在は、ホテルのロビーにて各地の震災とその対応についてのパネルを展示しています。

たくさん視察させて頂きましたが、特に印象に残ったエピソードを紹介させて頂きます。

 

命がけの呼びかけ

南三陸町の防災無線で避難の呼びかけを行う町の女性職員の声が印象的ですが、危機を感じた上司の男性職員が代わり、庁舎が流されるまでマイクを握り続けました。お二人を始め、防災対策庁舎に残った職員は命がけで町民を守ろうと行動しました。その防災対策庁舎跡は、悲しみから解体を検討されましたが、のちに震災遺構施設として保存されることになりました。

 

コミュニティでの助け合い

震災直後、津波で呑み込まれた地区の真上にある高台の地域では、避難者を受け入れ、コミュニティルームを避難所とし、団地の高架水槽にある水をみんなで分け、それぞれのお宅で持っていた食材備蓄をみんなで分け、数日を凌ぎました。その後、少し離れた内陸地域から、水やおにぎりの物資が届き、避難者は命をつないだというエピソードを伺いました。

この地区と支援してくれた内陸地域は、昔からの交流があり、助け合ってきたという背景があそうです。水や米を送るだけでなく、おにぎりにして送ってくれるという心意気は長い間に培われた絆だと感じました。

 

命を救う中学生

あるとき、仮死状態の消防隊員が流されてきました。発見した数名の中学生は、隊員の体はずぶぬれで冷え切っていたため、自らの衣服を脱いで、隊員に着せ、自分たちの体温で隊員を助けました。自らも寒い環境の中、衣服を脱いで助けた中学生たちに、隊員は、感謝の意を表したと思ったら、すぐに救助活動に戻ったそうです。偶然だったそうですが、この隊員は以前この中学校で防災講座の講師をしたことがあり、中学生が実践したということになるようです。

児童の命を救えるか?

平成23年3月9日、南三陸町立戸倉小学校では、翌日の避難訓練に備えたミーティングが行われていました。

津波を想定した避難訓練で、児童を校舎の屋上に避難させる計画。

そこに、ある教員が疑問を投げかけた。

「校舎の屋上で、児童の命は救えるのでしょうか?」

この教員の言葉により安全性を考え、翌日は、学校の裏山にある小さな神社に避難する訓練に切り替えました。

奇しくも訓練の翌日、大津波が発生。警報とともに全児童は神社に避難しました。10日前に引き渡された体育館を含め、校舎は津波に呑み込まれました。

より安全を考えた一人の言葉が、命を救いました。

そして、神社で夜を過ごす全児童。寂しがる下級生のために上級生の児童たちが一晩中合唱して励ましたというエピソードを聞き、涙しました。

 

視察先についてや視察の成果については後日掲載させて頂きます。