政治の無責任と反省

コロナ禍で「自己判断と自己責任」を求めた活動自粛。

この厳しいストレスや先行きの見えない不安感が募るのは当然のことで、これまでの我が国の政治の方向性とは真逆のことを国民に強いているからです。

でも、これは何となく守られている感のある安心感と平和ボケから来ている意識の問題でもあります。

 

市民は行政により高いサービスを求め、政治家はそれに応えるために活動する。

これは当然のことであるものの、過剰サービスを求められた場合にも応えようとしてしまう政治家の問題が多々あります。

 

単一論点政治~single issue politics~

「○○をやってくれるなら・・・」

政治家をしていると、こういうことを言われます。

「○○」の考え方が異なっても同じであっても、意見交換をします。

最終的に意見の一致がみられないことはありますし、敢えて同調することはしません。

しかし、一つの論点で○×を決めてしまう傾向があり、「わかりやすさ」が前面に立っていることが、複雑な状況に対応できなくなっている実情と思います。

 

お上(政府)は何とかしてくれる神話

政治不信が続く中ですが、

「お上はやってくれる」

という根底には信頼感を抱いている国民・市民が多いと考えられます。

 

しかし、今回のコロナはどうでしょう?

「お上」がやってくれるのではなく、「お上」は、はじめて自己責任を国民に求めたわけです。

では、これが百パーセント悪いことなのでしょうか?

逆に、私は罰則のない自粛が実施された「日本モデル」が絶賛されることなのでしょうか?

お上をつくっているのは「神」ではなく、「国民」で、いいことも悪いことも検証し、その歴史に学ぶべきです。歴史は百年レベルではなく、数か月前のものも歴史に刻まれています。

 

誰のせいでもなければ、誰のせいでもあり、自分のせい

「政治の無責任と反省」というタイトルですが、自らの反省に始まります。

市長秘書、衆議院議員秘書、川崎市議会議員と通算16年を政治に携わり、政治が国民・市民のものとはかけ離れてしまっていることが、すべての反省の根本にあります。

しかし、若い世代が関心を持ち、多くの人が声なき声を届けてくれる。

「政治の無責任と反省」のタイトルは「政治家」としなかったのは、政治をつくるのはあくまで国民・市民です。

国民・市民の役割の一つとして、私は政治家としてその責務を果たして行きます。任せて頂いていますが、任せっ放しにして頂いては困りますし、これは私だけでなく、すべての政治家に対し、チェックして頂き、アシストして頂き、一緒になって社会をつくって行って頂きたいと思います。

よく、市民の三要素のお話をします。

「納税者としての市民」

「サービス受給者としての市民」

そして、忘れがちな「構成員としての市民」。

構成員だからこそ、自分事として一緒に考え、できることから一緒に進めていきましょう。