会長の告別式

kokubetu昨日は、私が勤めていた会社の会長の告別式に参列しました。

東京で就職した会社の会長の告別式が、私の生まれた大阪府豊中市で行われるのも何かの縁かと思いながら、雨の降る桃山台から会場まで歩いて向かいました。

 

私が就職した会社は、当時、営業部門と工場部門が別会社になっていて、私が働いていたのは営業部門、会長は工場部門の社長でした。

私の会社の社長(以下社長)の兄が、会長(以下会長)。

会長が大学生の頃に大阪で起業し、社長が学生の頃から会長の仕事を手伝い、二人三脚で事業を拡大して行きました。

 

社長は葬儀委員長として、会長との思い出を語られました。

会長は、商品開発が好きで、様々な発明を生み出し、その成功と失敗を繰り返してきたという裏側の想い出。

会長がトップでどんどん決めて、社長や周囲が苦労したと苦笑いしつつ、親分肌で優しい人であったという想い出。

その後、ステンレスという新しい分野に進出し、ステンレス加工管の分野では著しい発展を遂げたという功績。

そして、わが社の名物と言うべきか、会長と社長の兄弟喧嘩。

「仕事ではよく喧嘩をしましたが、仕事を離れると、いつも一緒の仲のいい兄弟でした」

というエピソードに、元従業員の私も納得。

さっきまで喧嘩してたかと思ったら、仲よく談笑しているのが、会長と社長。

 

兄弟であり、親友であり、事業のパートナーとして、深い絆を結ぶ兄弟関係を知るゆえに、社長に挨拶以外に掛ける言葉が思いつかず・・・。

親族だけでなく、参列していた従業員も涙を流すほど、会長は慕われていた親分だったと思います。

 

私と会長の関係は、入社前に遡ります。

会社を受けるの縁は、選挙で知り合った方にスカウトされ、その人の下で働きたいと思って面接を受けました。

大学4年の就活時、政治への志があったとは言え、面接では絶対言ってはいけない文句を言ってしまう私でした。

「会社に一生いるかどうかはわかりません」

この生意気な私に対し、

「おるときに、一所懸命がんばってくれたらええ」

と社長の言葉に、何の仕事か分かりませんが、理解ある社長の会社であればと入社を決意しました。

会社からは翌日に内定通知が届き、後で聞いた話ですが、入社の数か月前に名刺まで作ってくれていたそうです。

とは言え、何を売るかもよくわかってなかったし、コネ入社なので、入社してから紹介してくれた方に迷惑をかけると思い、夏休みに工場実習を志願しました。

すると、

「ほな、向こうの社長に言うとくから、アルバイトで行っておいで」

と社長は二つ返事で送り出してくれました。

で、向こうの社長というのが、工場部門の社長、いわば、亡くなった会長なのですが、工場の会社のパンフレットに載っている写真を見ると、おっかない人、関西弁で言うところ、ややこしそうな人という印象でした。

 

その後、8月のお盆休みまで、滋賀県彦根市にある工場の3階広間で3人の職人さんと寝泊まりする2週間が始まりました。

しかし、初日の夜、私は3階の大部屋に単身赴任で来ている職人さんたちと飲んで、酔って階段から落ちてしまいました。

それから、会長には、「階段落ち」と命名されました。

当時、会社の工場は二つあり、車で20分ほどのところ、多賀大社の近くに多賀工場があり、彦根が鉄、多賀がステンレスということでした。

滋賀工場に寝泊まりし、多賀工場に移動する車の送り迎えを統括工場長や工場長、そして、会長に届けてもらうと言う、恐れ多い対応を受けました。

会長には何度か送り迎えをして頂き、車中で会社の成り立ちや想いなど、様々な話を聞かせて頂きました。

その後、入社時には、「階段落ち、がんばれよ」と電話をくれたり、

私が初めて受注した時にも、「初めての受注、ようやったな。職人のおっちゃんらもみな喜んでるで。しっかり作ってもらうで」

と電話で喜んでくれました。

おっかない見た目とは裏腹に、このように親分肌で優しく丁寧な方でした。

退職し、数年お会いしていなかったのですが、4年前、川崎市議会議員に当選後、会長、社長、専務(社長の子息で私の元上司)でお祝いの席を設けて頂いたときが最後になりました。

会いたいと思っていて会えなくなって、寂しいですね。

 

我が国の戦後の復興期から成長期、バブル崩壊後の厳しい時期まで、様々な時代を乗り越え、また創って来られた一人である会長のご功績に感謝致します。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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